チーズを日本の食卓へ(昭和編)

半世紀で消費なんと200倍!

雪印 遠浅工場(1932年10月開設)

「君たちのなかでチーズを食べたことのある人は?」。戦後しばらくたった頃、とある大学のミルク化学研究室の教授が、学生たちに言った。10名ほどの学生のうち、手を挙げたのはたったひとり。カマンベール、ロックフォール、ゴーダを生まれて初めて口にした学生の反応は「これ腐っているんじゃありませんか」「お金を出してまで食べる気にはなりませんね」だった―(1)。
故鴇田文三郎・信州大学名誉教授の若き日の体験談である。その頃、1952(昭和27)年の国民ひとりあたりの年間のチーズ消費量はわずか10グラム。それが2000年には2キロを超え、現在は3キロに達する勢い(2)。 消費量は実に200倍に増えたことになる。チーズはどのように紹介され、日本の食卓に定着したのだろうか?

雪印 遠浅工場(1932年10月開設)

戦前のチーズレシピ

明治期に、既にチーズは紹介されていた。1903(明治36)年に報知新聞で連載され、ベストセラーとなった村井弦斎のグルメ小説『食道楽』に「チース料理」の項がある。チーズに衣をつけて揚げたフエタス(フリッター)やマカロニチーズ、チーズスフレなど手の込んだレシピが紹介された(3)。 明治後期、北海道のトラピスチヌ修道院などでは小規模ながらチーズの生産も始まった。とはいえ、チーズが商業的に作られるようになるのは昭和に入ってからのこと。明治製菓や森永練乳、そして酪農家の組合からスタートした北海道製酪販売組合連合会(酪連)が、難易度が高いと言われたチーズの商品化に取り組んだ(4)。
酪連がバターとチーズのPR用に作成したパンフレット『和洋バター料理之栞 附チーズ料理』(1934年)は、チーズの「用途」、つまり食べ方を以下のように伝えた。酪連の技師だった故佐藤みつぎ・雪印乳業社長によると、販売店の店頭や女学校の卒業式で配布し、PRしたという(5)。

  1. 食卓用としてはチーズを厚さ2-3分の1寸2-3分角に薄く切り、洋皿に体裁良く斜めに並べてこれを出します。普通洋食の場合には食事の終りにこれを食べます。
  2. おやつの時にはチーズをパン、ビスケット又はクラッカー等を添えて出し、珈琲、紅茶を飲みながら食べますと実に美味しく頂けます。
  3. サンドウイッチ用としてはチーズを1分5厘乃至ないし2分厚さに切り之を薄切りにしてバターを塗ったパンの上に並べ好みにより辛子を少量表面に塗りさらにパンにてはさみ、パンを三角または長方形に切る時はおいしいサンドウイッチができます。(中略)登山、遠足、スキー等には軽くて携行に便利であります。
    • 1寸は約3cm、1分は約3mm、1厘は約0.3mm
チーズ料理のレシピも紹介した『和洋バター料理之栞 附チーズ料理』(1934)

国産チーズの原点

同じパンフレットに、チーズ発売にあたっての、こんな「口上」がある。

我が国でもチーズの愛用は漸次増加して参りましたが、其の大部分は高価な舶来品です。私共はこれを甚だ遺憾に存じまして「日本人の栄養は日本人の手で」を実現すべく、乳製品の国産独立を期し、(中略)今度確信を持って「雪印北海道チーズ」を製造致しました。…

製造を担った遠浅工場(現在の北海道安平町)は、酪農に望みをかけ、滝川から農家32戸が集団で移住した火山灰地の村に、1933(昭和8)年に建設された。農家が当番制で集乳し、馬車で工場に運んだ牛乳でナチュラルチーズを製造、プロセスチーズに加工された(6)。 国産チーズの「原点」と言えるだろう。
新発売のチーズは評判となり、生産量は初年度2万9千ポンド(13.1トン)から年々増え、1942(昭和17)年には約49万ポンド(221.9トン)に達した。しかし、太平洋戦争の戦況が悪化すると、木製航空機の接着剤となるカゼインの増産が叫ばれ、不要不急のチーズ製造は縮小された(7)。

遠浅工場でのナチュラルチーズ製造の様子(1935)

海のむこうからチーズがやって来た

敗戦後、GHQ(連合国軍総司令部)の仕切りで、米国から乳製品が日本になだれ込んだ。1951(昭和26)年、ナチュラルチーズの輸入が自由化されると、多くの食品メーカーが参入できるようになった。チーズ消費量は、1956年の約2千トンから1962年には8629トンと6年で4倍となった。
1959(昭和34)年、乳業各社でつくる日本乳製品協会は、各国大使館の協賛で物産展「世界チーズ展」を東京の日本橋三越で開催した。米国28種、フランス20種など6か国73種類のナチュラルチーズ、国内メーカーの商品を展示即売し、6日間で8万人が押し寄せた。チーズ展は大阪や名古屋にも広がり、62年まで毎年開かれた(8)。

学校給食にまかれた「たね

雑誌『婦人生活』に掲載された
スライスチーズの広告(1963)

東京オリンピックを翌年に控え、健康増進が叫ばれていた1963(昭和38)年、チーズが学校給食に採用された。
アルミ個包装10グラムの給食用プロセスチーズは、言わば、日本人の食習慣にまかれた「種」だった。
ほどなく全国に広がり、1970年代以降に子ども時代を過ごした日本人はもれなくチーズを食べて育ち、親になると迷わずわが子にチーズを与えるようになった。食文化を研究する和仁皓明は、給食への導入がもたらしたインパクトを「日本人の食文化史上注目すべき、数十年かかった一種の食の革命」と表現した(9)。

「切る手間をカット」ー。
同時期に発売されたスライスチーズの宣伝コピーは、日本人が忙しくなったことを物語る(10)。
当時を知る坂本嵩・チーズプロフェッショナル協会監事は「用途が明確で、チーズが朝食の定番になるきっかけを作った」と振り返った。
64年にはナチュラルチーズの空輸が始まった。

雑誌『婦人生活』に掲載された
スライスチーズの広告(1963)

「スタミナ」から「楽しむ」時代へ

「スタミナはチーズでOK」「受験生をおもちのお母さまへ」「栄養があって手軽にもっていける」…。いずれも1965(昭和40)年の新聞広告のコピーである。
プロセスチーズの原料用に輸入されるナチュラルチーズの関税を割り引く関税割当制度が導入された70年代の10年間で、チーズの消費量は一気に倍増した(11)。 「とろける」チーズなど新製品が続々登場し、手頃なプロセスチーズがありふれた食品となる一方で、ワインブームやピザ人気により、チーズに本場の味わいを求める人が増えて行った。ほどなくヨーロッパで学んだ人たちが土地に根差したナチュラルチーズを作り始め、日本のチーズの歴史に新たなページが開かれる。

TEXT:SHIHO KOBAYASHI

【文献】

  1. 1.鴇田文三郎『チーズのきた道』河出書房新社(1977)、講談社学術文庫(2010)
  2. 2.一般社団法人Jミルク「酪農乳業参考データ―主要国の消費動向」『近代日本の乳食文化 その経緯と定着』中央法規(2019)所収
  3. 3.村井弦斎『食道楽(下)』(1903)、岩波文庫(2005)
  4. 4.一般社団法人Jミルク企画・編集『近代日本の乳食文化 その経緯と定着』中央法規(2019)
  5. 5.北海道新聞社編『私のなかの歴史4』(1985)
  6. 6.早来町史編集委員会『早来町史』早来町役場(1973)
  7. 7.雪印乳業『雪印乳業史 第一巻』(1960)
  8. 8.雪印乳業『雪印乳業史 第三巻』(1969)
  9. 9.和仁皓明『牧野のフロントランナー 日本の乳食文化を築いた人々』デーリィマン社(2017)
  10. 10.雪印乳業『写真でみる雪印乳業五十年』(1975)
  11. 11.石原哲雄「チーズをめぐる政策の変遷」『酪農乳業史研究10号』(2015)

【資料協力】雪印メグミルク 酪農と乳の歴史館

小林 志歩 / ライター

Profile:京都市生まれ。筑波大学比較文化学類卒。
新聞記者、日本語教師を経て、2002年、NPO法人モンゴルパートナーシップ研究所(MoPI)で遊牧民の暮らしに学ぶスタディーツアーを企画運営したのをきっかけに、モンゴルの乳文化と出会う。現在はフリーランスで、モンゴルや酪農をテーマに取材し、エッセイを新聞等に執筆している。ユーラシア大陸における乳加工の伝播など、酪農の歴史や食文化に興味がある。

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