初めてチーズ作りを学んだ日本人たち

日本で最初に西洋型チーズ(ヨーロッパで発展したレンネット凝固型チーズや酸凝固型チーズ。写真参照)が作られたのは1875年(明治8年)のことで、場所は七重勧業試験場(現、北海道亀田郡七飯町)でした。七重勧業試験場の前身である七重開墾場は1870年(明治3年)に北海道の農業や酪農を定着させることを目的に設立されました。この事業には日本政府に招聘された米国人のケプロン、クラーク、エドウィン・ダンなどが参画しました。彼らは七重勧業試験場にも頻繁に通い、酪農やチーズについても指導していました。

1877年(明治10年)に書かれた「乾酪製法記」という文書があります。ちなみに、「乾酪」とはチーズのことで、仮名垣魯文(かながき ろぶん)という人が書いた「安愚楽鍋(あぐらなべ)」という本(明治4年)の挿絵に「日の出」という店が描かれており、店ののれんに「乾酪 チーズ」と書いてあります。

「乾酪製法記」の筆者は迫田喜二(さこた きじ)という人で、黒田清隆の配下として倒幕戦争や会津戦争に従軍した後、北海道の開拓使役人として新道開削工事(現在の国道5号)を指揮監督しました。その後、湯池定基が場長をしていた七飯勧業試験場に転勤しました。迫田の仲間には菅谷隆英、恒吉勝重らの名前が職員録(開拓使函館支庁七重勧業試験場職員録附郡区職員録、1881)に記載されており、これらの仲間と共に米国人の指導を受けながらチーズを試作していたと推察できます。

「乾酪製法記」は墨書で私はまったく読むことができません。しかし、ラッキーなことに和仁皓明先生(雪印乳業を退職後東亜大学大学院教授となり、現在西日本食文化研究会主宰)が活字体に翻刻(注、内容は変えずに活版で刊行すること)し、若干の解説を加えたものが東亜大学紀要(no5, 2005とno6, 2006)に収録されています。この翻刻版を読んだのですが、日本語そのものが現代日本語と違っており分かりにくいのは変わりません。それでもおぼろげながら概要を知ることができました。

「乾酪製法記」は七重勧業試験場にてチーズ製法を学んだことをまとめた学習ノートのようなもので、恐らく日本人が最初に学んだチーズ製造方法だと思われます。翻刻版を読むとチェダー、チェシャー、スティルトン、エダム、ゴーダ、パルメザン(写真)など多種類のチーズが登場しています。何も知らなかった迫田らにとってこれらを習得する苦労は並大抵ではなかったことがよく分かります。

写真「乾酪製法記」に登場するチーズ
「チェシャー」画像提供 NPO法人 チーズプロフェッショナル協会

まず言葉の問題です。英語に不慣れな迫田にとって、米国人の英語を正確に理解することは大変だったと思われます。よくわからない言葉は聞こえた通り書いています。例えば、ソディウム(sodium)はソージャム、カード(curd)はコルドとなっています。何のことか不明な言葉も多々登場してきます。例えば、レンネットの作り方を説明している箇所で、「ヒシ氏胃内ノ含有物ヲ除去シテ・・」と書いてあり意味不明です。

当時のチーズ製造は科学的な裏付けは殆どなく、伝統的に行われていた経験に基づいていました。迫田も「十中八九ハ想像ニヨッテ製造シ、学術上ニ就テ製造シタルモノニアラサル・・・」と書いています。そのため、牛乳からカードが生成する理由について、“乳を貯蔵し酸味が生じると凝固する。酸味は乳糖が酸化して乳酸に変わるため”と書いています。勿論、現在では乳酸菌の働きによって乳糖が乳酸に変化するためであることは皆様もよくご存じのことです。しかし、イギリス人のリスターが乳酸菌を純粋分離したのは1871年(明治4年)で、その頃赴任してきた米国人らはまだ乳酸菌を知らなかった可能性があります。したがって、迫田らが乳酸菌の存在を教えられていないのは仕方ないことです。また、チーズを熟成(半腐敗と表記しています)すればおいしくなることは認識していましたが、その理由は分からないと述べています。

上記したように、当時の米国人指導者や実習生は生乳を貯蔵していると酸味が出てくるのは乳糖が乳酸に変化するためと理解していました。しかし、環境中や生乳そのものに含まれる菌や酵素の働きで乳糖が乳酸になることは知りませんでした。そのため搾乳した乳を殺菌するという概念を持っていません。恐らく、経験的に殺菌するとおいしいチーズが作れなかったためでしょう。迫田は無殺菌乳から作る場合、「同じ牛から同じように搾乳し、同じ人がいつもと同じようにチーズを作っても、お手本になるようなすばらしいチーズができることはたまにしかない」と記載しており、想像を絶する苦労をしたと推察できます。

そのような苦労があったせいでしょうか、チーズ製造時の温度管理については微に入り細をうがつように記載しています。酸度測定が行われるようになったのは1899年(明治32年)、pHの概念が確立されたのは1909年(明治42年)のことです(下記「明治~大正にかけてのチーズ関連技術史」参照)。なので、当時のチーズ作りでは温度のみが定量的に制御可能な因子だったのです。そのため、手を突っ込んで温度を管理するのではなく必ず“寒暖計”を使うことが重要だと述べています。なお、チーズ作りを指導したのは米国人であったことから、温度は全て華氏で記載されています(注、日本で摂氏が広く使われたのは昭和になってからです。余談ですが、江戸時代に平賀源内が作った寒暖計も華氏で表示されていたそうです(高田誠二, Netsu Sokutei 32: 162-168, 2005))。

明治~大正にかけてのチーズ関連技術史

西暦 元号 事象 出典
1871年 明治4 英国人リスターが乳酸菌純粋分離 醸協 67 no3 214-222 1972
1874年 明治7 クリスチャン・ハンセン社がレンネットを商業化 日本酵素協会産業史
1875年 明治8 七重勧業試験場にてチーズを試作 化学と生物 9: 655-661, 1971
1899年 明治32 酸度測定法が日本にも導入 ミルクサイエンス 58: 177-182, 2009
1900年 明治33 トラピスト修道院にてチーズ製造開始 化学と生物 9: 655-661, 1971
1909年 明治42 セーレンセンがpHの概念確立 http://www2.kuma.u-tokai.ac.jp/~nougaku/Bio/araki/ph.htm
1911年 明治44 農務省月寒試験場の米山豊がブリックチェダー製造指導 J-MILK 社会文化研究報告、2012
1917年 大正6 種子島牧場にて洞窟を利用したチーズ熟成 玉利喜造先生伝

堂迫俊一、デーリィーマン 70(4): 32, 2020 より抜粋

七重勧業試験場では初乳からもチーズを試作しました。勿論、現在では初乳からチーズを作り販売することは乳等命令で禁止されています。初乳は脂肪が高く免疫グロブリンが多い(注、牛初乳はカゼインよりホエイたんぱく質が多く、ホエイたんぱく質の60%以上が免疫グロブリンです。)ので、仔牛の免疫獲得にとっては極めて重要ですが、おいしいチーズは作れません。迫田は「平常の食物として食べるには味が過度だった」と記しています。「味が過度」とは具体的にどんな味だったかは分かりませんが、非常にくどい味だったのでしょう。

熟成庫は製造室や牛舎のそば、あるいは他の建物の端に設置すると書いてあり、直射日光を避け、適温を保つことが重要だと認識していました。また、庫内の湿度についても、高くても低くてもだめだと考えていましたが熟成庫の具体的な温度や湿度に関しては言及されていません。当時、熟成のメカニズムが分かっていなかったのですから致し方ありません。しかし、札幌農学校を1905年(明治38年)に卒業した米山豊は1911年(明治44年)には農務省月寒試験場(北海道札幌市)にてブリックチーズを指導しました。その後、1915年(大正4年)に開設された種子島牧場の初代場長となり、洞窟を利用してチーズを熟成しました(玉利喜造先生伝、1974)。このように、明治後期から大正初期にかけてチーズ製造技術が飛躍的に進歩したと考えられます。

こうした先人たちの苦労と努力があったからこそ、近年日本のチーズは欧米のチーズコンクールでも優秀な成績を収め、世界に認められるようになったことは言うまでもありません。

TEXT:Shunichi Dosako

堂迫俊一さん 農学博士(元・雪印乳業(株)技術研究所 所長、現・(NPO法人)チーズプロフェッショナル協会 顧問)

Profile:1974年雪印乳業株式会社入社。以来、大阪工場、技術研究所、研究企画部、栄養科学研究所、育児品開発部などを経て、2002年技術研究所所長に。2007年定年退職後、雪印メグミルク(株)ミルクサイエンス研究所主事としとして勤務。その後は(NPO法人) チーズプロフェッショナル協会顧問、(一社)Jミルク 酪農乳業史料収集活用事業推進委員を務めた。
著書:「チーズを科学する」(共著)チーズプロフェッショナル協会発行 幸書房 2016年11月11日発売。「新版 牛乳・乳製品の知識」 幸書房 2017年10月25日発売。

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