イタリア料理研究家 朝倉 絵里子さん 第一回

“イタリア”といえば、パスタの国。もちろん、パスタと言えばチーズは欠かせません。そんなイタリアで料理修行された朝倉 絵里子さんにインタビュー。

朝倉 絵里子/イタリア料理研究家

Profile:雪印乳業㈱(現:雪印メグミルク㈱)宣伝部で9年間、料理に関する業務に携わり、その後、イタリアに渡りピエモンテやトスカーナで4年弱シェフ修行。
現在は自宅でイタリア料理教室を開講。
チーズやワインについての知識も豊富で、ワインアドバイザー資格も有する。

料理を仕事に

雪印乳業(当時)時代に携わった業務

朝倉さんは、雪印乳業(当時)で社会人デビューされましたが、どのような業務を担当されていましたか?

お料理の仕事がしたいと思って雪印乳業(当時)に入社して、パンフレットやポスターの撮影用に料理を作ったり、レシピ本やリーフレットを作ったり、9年間宣伝部でお料理に関する業務を担当していました。

9年間続けられたお仕事を辞めて修行に出ようと思われた“きっかけ”は、どういったことだったのでしょうか?

お料理を専門に仕事をしていく上で、最初は先生のアシスタントから始める訳ですが、先生方は専門の分野を持った方が多く、自分もいずれ先生方のように専門分野=強みを持ちたかったというのが大きいです。より詳しい分野がないと説得力もないのかな、という気持ちがすごくあったので。
そんな中で先生方にお話を聞くと、フランスへの留学経験のある方が本当に多かったので、自分も専門を持って…と思った時に留学したいなと思うようになりました。

仕事を辞めて留学する、その思いを持ってから、すぐに決断できましたか?

決断までには時間が掛かりました。仕事を続けながら4年くらいですかね…。

4年・・・悩まれた理由は?

料理を仕事にするなら海外に行った方がいいだろうと思う気持ちがある反面、その時やっていた仕事も好きで、経験を積んでいくと自分で考えて工夫してやっていく楽しさがあって。でもやはり、先生方と同じ様に“自分”としてやりたいという思いが芽生えてきて、その為には自分がスキルアップするしかない、長く仕事としてやっていく上で自分の自信となるものが欲しくて、最終的にイタリアへの留学を決断しました。

お料理で留学というとフランスが多いのかなというイメージですが、イタリアに行かれた理由は?

当時は本当にフレンチ全盛の時代で、先生について習ったり、国内やフランスのお店巡りをしたり、チーズやワインを学んで資格を取ったりもしましたが、知れば知るほど、自分の実生活とか会社でフィードバックしていくレシピには「敷居の高さ」を感じるようになって、食べ続けると「重い」というか、食べ疲れしてくるなというのもあり、フレンチは「ハレの日」のお料理なのかなと思った時に、お隣の国“イタリア”に目が向いたんです。

イタリアのどんなところにピンと来たのでしょうか?

写真などで見るイタリアの風景がすごく美しくて惹かれる感じがあって、旅行してみたら本当に明るくて気さくで、気取らない感じがすごく自分の肌に合うなって思ったのと、食べ疲れないところがすごく大きくて、自分にはこっちなんじゃないのかなと思ったんです。

イタリアに魅せられたんですね!

フレンチはフランス革命の時代に宮廷料理がレストランの方に降りていったというルーツなんですが、イタリアンはマンマのお料理がレストランに昇格していって、家庭料理がルーツで昇華していったっていう、そういう歴史も知ると、やっぱり自分はイタリアだなって思って、イタリアに行きたい気持ちがどんどん強くなっていきましたね。

いざ、イタリアへ

イタリアに渡られてからは、すぐにお店に入られたんですか?

言葉が心配だったので最初の2ヶ月は語学学校に通って、その後、何のツテもなかったので日本から来たシェフをお店に派遣する団体があったので、そこに申し込みました。最初の2ヶ月はホテル学校で料理を教えてもらい、その後、レストランで働くことになりました。

イタリアのどの辺りに行かれたんですか?

北ですね。私が行っていた時代は、南のお店を紹介するところが少なかった事もありますが、知り合いのシェフから「北は三ツ星を取っているお店が多く、技術の高い所が多いから勉強になるよ」と聞いていたので、紹介されたピエモンテのお店に行ったんです。

イタリア北部を代表するチーズ グラナ・パダーノ

ピエモンテはどんなところですか?

イタリアワインで有名な「バローロ」の産地なので、そういう意味で地名は知っていたんですが、その当時はまだまだマイナーな地域で、お店がある街は日本人が一人もいない、小さな街でした。
トリノが州都で、トリノオリンピックが開催されましたよね。フランスと接していて、「ピエ」は「麓」、「モンテ」が「山」なので、山の麓の州っていう意味なんですけれど、電車でちょっと行ったらマッターホルンが見えるような景色の美しいところで、乳製品も多いですし、「自分のイメージ通りのヨーロッパ」っていう感じのところでした。

イタリアに行かれてから苦労された点などは?

1軒目のレストランに入った時が本当に一番大変で、言葉ですよね。渡航前にイタリア語を勉強して、現地でも語学学校に通っていたので、少しは喋れるかなと思っていたんですが、やっぱり仕事で入っていくと…。語学学校だとお客様だったんだなっていうぐらい、全然、本当に言葉が分からなくて。厨房だと慌ただしさもありますし。
イタリア人ってコミュニケーションがすごく大事な人種なので、喋れないともう本当にダメなんですよ。疎外感もものすごくありましたし、言葉がわからないと相手にしてもらえない、言いたいことを言えないのも悔しくて。そこがかなり辛かったですね。

言葉の壁はかなり高かったんですね。他には何かありましたか?今は違うと思うんですが、料理の世界は男性社会というような印象もあります。イタリアはどうだったんでしょうか?

マンマのシェフが三ツ星を取っている国なので、トップに女性シェフがいるってことは結構多いことで、女性差別というのは感じなかったですね。なので、明らかに言葉ができるかできないかっていうことでの差別ですよね。それはもう、しょうがないんじゃないですか。それって相手からすれば当たり前で、自分がね、言葉がわからない人に、忙しい時にどこまで相手をできるのかっていう。

1軒目のお店にはどれぐらいいらしたんですか?

半年ですね。そこで研修がちょうど終わりのタイミングだったので。

その頃はどんなことを思っていらっしゃいましたか?

イタリアに渡ってから大体1年弱ぐらい経っていたのですが、その時点で思っていた半分もできてなくて、料理はそれなりに教えてはくれるんですけど、自分が思い描いてた感じの半分もできてないから、これはダメだって、まだ絶対帰らないって思っていました。

2軒目はどんなお店だったんですか?

2軒目もワインの産地として有名なトスカーナです。始めの語学学校がフィレンツェで土地勘があったので、トスカーナに移ってレストラン探しを自分でしようと思って行ったんです。フィレンツェは修行に来ている日本人の料理人の方が多いので、そういった方々から情報をもらって、実際にお店に食べに行って、良さそうだったら飛び込みで働かせてください!と直談判することが割とまかり通る感じだったので、じゃあ私もそれでいこうっていう。

修業していたリストランテ

せっかく行ってるんだから、受け身じゃダメなんですね。

そうですね、絶対次のお店を見つけようって思っていたので、今の自分からは考えられないんですけど、厨房見せてください!って一人でバンバン行けるようなメンタルにはなっていましたね。

お店では始めからちゃんと料理の担当をさせてもらえたのですか?

イタリアのすごくいいところなんですけれど、お皿洗いはお皿洗いの役目の人がいて、ずっとお皿洗いなんです。料理人として入ったら、絶対料理やらせてくれるんですよ。なので、私もそこでは、前菜とドルチェ(デザート)をやらせてもらっていました。
2軒目のお店ではパスタを、最後のお店ではメインを一部やらせてくれて、そういうポジションを任せてくれるお店っていうのも、働くお店を選ぶ時の基準の1つとしていましたね。

充実した日々

2軒目の頃で印象に残っていることは?

その頃にはコミュニケーションも取れるようになって、イタリアの風習にも慣れた頃で、やってみたかったパスタを担当させて貰ったりしました。出来なかった事ができるようになって、そうするとやっぱり楽しくて。自信がない時って自分から聞きに行くのもちょっとためらってしまう部分があったんですけど、わかるようになってくると自分からグイグイ聞きに行けるようになって、そうすると相手もすごく教えてくれて、本当にコミュニケーションが大事な「鍵」だなと思いましたね。

修業時代、シェフ仲間と

充実した日々を送られていたことが伺えますね。そんな中で3軒目のお店に移られたのは、どういったきっかけから?

そうですね、ちょうどそのレストランが、経営的にワイン寄りで立地もより観光地近くに移るという計画があって、そこに行くこともできたんですが、街で評判の良いお店で高級店なんですが空きがあるということを聞いて、そのお店にちょっと憧れていてたのと、「オーブン前」の担当に空きがあるということで、オーブン前って、大体メイン料理が多いので、そこを担当できるならと思って決めました。

メイン料理担当で、プレッシャーなどはありませんでしたか?

プレッシャーはありましたが、勉強に来ているので、なるべく多くの料理を知りたいし、担当したいと思っていたので。他のお店は違うかもしれませんが、修行先ではやってみてちゃんと出来れば、メインの料理も全部ではないですが担当させてもらえて。高級店になると使っている食材も結構高級なものになってくるので、メイン料理をやらせてくれるのはすごいなと思っていました。そうするとこっちも頑張ろうっていう気になって。やっぱり嬉しいじゃないですか、すごく。レストラン経験の少ない私でも「日本人は真面目にしっかりちゃんとやる」っていう、日本人への信用が多分すごいんですよ。日本から来た方たちのこれまでの働きぶりから積み上げられた信用があって、日本人ということで最初のハードルがちょっと下がって、なんか日本人で得してたと思います。最初は怒られることも多くて緊張もありましたけど、それでも、やっていけばなんとかなっていくものだし、イタリアだからできたんでしょうね、きっと。

これは大失敗!みたいなこともあったんですか?

もちろん、ありますよ。鳩肉を使う日で、ちょっと火入れし過ぎて固くなってしまって。その日にちょうどレストランの評論家が来てて、それを書かれてしまって・・・どうしようって泣きたくなりましたよね、ごめんなさいって。凡ミスもありましたし、厨房は怒られることは本当にしょっちゅうです。

イタリアで得たもの

閉店後の厨房でのひととき

イタリアでの修行を通して得たものは、どんなことですか?

イタリアの人たちって、いい意味で適当なんですよ。それって、いい加減な適当って言うことではなくて、いい塩梅の適当さで、そのさじ加減がとても上手な人たちで、必死に、一生懸命っていうよりは、そこから1歩力を抜くと、そこに美しいものがあるっていうようなことをね、すごく教えてもらったという感じがします。力み過ぎないっていう。

イタリアンって、引き算の料理なんですよ。いろんな具材を入れると、豪華そうだけどなんかよくわからない味の料理になってしまったり、イタリアンってすごくシンプルなんです。
素材を生かしてシンプルに食べていくっていうのも、手を抜いているんではなくて、すごくいい塩梅なんですよね。そこはすごいなと思って見てました。

人生楽しむっていうこともそうですよね。仕事を離れたら上下関係無く、みんな愉快に付き合って。そこがやっぱりイタリア人の本当にいいところだと思いますね。レストランの営業が終わって、ちょっと言い合いをしても「はい、お疲れ様」で、ワイン飲んで、さらっとしてるんですよ。喜怒哀楽がはっきりしていて、怒るけど根に持たないっていう感じもすごく良かったですし、休みに旅行しようかなって言うと、故郷が近いから向こうで会おうよとか、ちょっと案内してくれたりとか、本当に気さくで親切な人が多い。ホスピタリティがあって、すごく親切にしてもらって良い思い出です。

帰国を考えたきっかけはなんだったのでしょうか?

元々3年を目途にとは思ってはいたんですよ、「石の上にも3年」じゃないですけれど、それぐらいいたら何かしらは掴めるんじゃないかなと想像していて。3年ぐらい経った時に、滞在許可書の期限がきまして。研修を終えた時点で一度更新はしていたんですが、そこからまた更新するっていう時に、すごく、どうしようかなと悩んで、2軒目、3軒目からは、お給料もちゃんと出て、自分で1人暮らしもしてきちんと生活ができるようになっていたので、イタリアでの生活がすごく楽しく感じていて、一方で、当時32歳ぐらだったんですが、イタリアに来た当初、いずれ日本で料理でやっていきたいっていう気持ちで来たので、帰国が遅くなればなるほどやりづらくなってしまうんじゃないかなっていう怖さがあって、じゃあ一旦帰ろうぐらいの気持ちで帰ってきましたね。でも、やっぱり帰ってくると、日本でやっていかなきゃなっていう気持ちがすぐに出ましたけどね。

トータルで3年9ヶ月に及んだイタリア修行を振り返ってみてどうですか?

あっという間でした。色々と凝縮された、すごく楽しい時間でしたよね。行って良かったかどうかって聞かれたら、もう、絶対行って良かった、自分の人生にその時間があったことはすごく良かったなと思いますね。

第2回につづく

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