「雪印北海道バター」の
歴史

1925年、雪印メグミルクの前身のひとつである北海道製酪販売組合を設立。
最初に手がけたのが、バターの製造でした。
今では食卓に欠かせない「雪印北海道バター」。その誕生秘話と商品・広告の変遷をご紹介します。

はじまり

北海道酪農の発展、
国民の栄養改善と体位向上を願って

1925年、関東大震災によって経済が混乱し、日本の乳業業界に苦境が続いてた時代。酪農家の窮地を救うため、雪印メグミルクの前身のひとつである北海道製酪販売組合(以下、酪連)を設立しました。
『北海道酪農の発展と、乳製品による国民の栄養改善・体位向上を目指す。』
その理念は、昔も今も変わらぬ想いとして受け継がれています。

  • 宇都宮 仙太郎
  • 黒澤 酉蔵
  • 佐藤 善七

酪連の設立に尽力した先人たち

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北海道酪農の発展、国民の栄養改善と体位向上を願って

1925年、宇都宮 仙太郎、黒澤 酉蔵、佐藤 善七らによって、雪印メグミルクの前身のひとつである北海道製酪販売組合(酪連)を設立。北海道バターの製造が始まりました。
当時は、関東大震災によって経済が混乱していた時代。国が輸入関税を免除したことにより、国内には安価な乳製品が多く輸入され、日本国内の乳業業界では販路が断たれる苦境が続いていました。
国産の生乳は、乳製品会社により買い入れ価格の大幅な値下げと受け入れ制限をされたことによって行き場をなくし、あいついで乳牛の殺処分がされる非常事態も招きました。

酪連は、そのような窮地を救うべく、酪農家たちのために立ち上がり組織されました。
『酪農民と酪連の役職員が一体となった協同友愛、相互扶助の精神に基づいた北海道酪農の発展と、乳製品による国民の栄養改善と体位向上を理念として運営をしていく。』
設立当初の理念は、今も変わらぬ想いとして受け継がれています。

設立当時の北海道製酪販売組合(酪連)

いざ、製造開始

(左)創業当時の器具(右)佐藤貢

ひとりでの奮闘

1925年7月25日、農場の一部を借りた仮工場でバターの製造を開始しました。
当時、主流であった輸入品バターに、一日でも早く品質でも価格でも上回るため、佐藤 貢はあらゆる仕事をたったひとりでやり通しました。

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ひとりでの奮闘

1925年、酪連の設立とともにバターの製造を開始しました。
当時は、まだ建物や設備もなく農場の一部を借りた仮工場からのスタートでした。
佐藤 貢は、製造技師として、生乳の受け入れから製造、器具の手入れ、掃除、帳簿つけまで、あらゆる仕事をたったひとりでやり通しました。
しかしながら、当時のバターは輸入品が主流ということもあり、販路が思うように決まらず、在庫を多く抱える日々でした。その保管用として札幌市内の甕(かめ)を買い占める有様だったそうです。
一日でも早く、品質でも、価格でも、輸入品に勝てるようになるため、奮闘は続きます。

仮工場

(上)アメリカの最新設備(下)新工場での箱詰め作業

設備の近代化
そして日本の食卓へ

その後、佐藤 貢は苦労して資金の調達をして新工場を設計しました。
1926年には、アメリカの最新設備を導入した、中央工場(北海道札幌市)での近代的なバター製造を開始。着実に生産量を増やし、日本の食卓へと広がっていきます。

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設備の近代化そして日本の食卓へ

その後、佐藤 貢は苦労して資金の調達をして新工場を設計。1926年に、アメリカから最新設備を輸入し、中央工場(北海道札幌市)での近代的なバター製造を開始。
『これでようやく品質の良いバターを作る環境が整った。』
このことは佐藤にとって、生涯でもっとも嬉しかったことだったといいます。
やがて、中央工場で蒔かれたバター製造の技術の種は、道内各地の工場で花を咲かせ、現在に至るまで脈々と受け継がれています。
戦後、市場拡大にともなって、設備の近代化はさらに進行。
1952年にメタルチャーン、1960年に連続式バター製造機、1968年には自動充填包装機を導入し、着実に生産量を増やし、日本の食卓へバターを届けていきました。

(上)連続式バター製造機(左下)メタルチャーン(右下)自動充填包装機

雪印マーク・
「雪印北海道バター」
デザインの誕生

Mark

販売当初、「雪印北海道バター」の課題は、世間から品質の評価を得られないことでした。そこで、佐藤らは「マーク(商標)」をつけることで、バターに特長を出そうと考えます。
1926年、酪連の佐藤 貢、瀬尾 俊三の母校である札幌第一中学校(現、札幌南高等学校)の校章からヒントを得て、北海道を象徴する雪の結晶のなかに、北国を意味する北極星を入れたマークが作られました。

Package

箱のデザインは、佐藤が留学先で学んだオハイオ州立大学のバターデザインをヒントにし、北海道の地図を中央に配置して黄色をベースとした色としました。
また、「北海道バター」という名称も日本で初めて利用され、やがて広く世間に知られるようになっていきました。
現在でも、この当時の伝統的なデザインは継承されています。

品質向上へのこだわり

  • episode1

    最高級のものを食卓に

    酪連では、はやくからバターを格付けし、最高級のものだけを食卓用として販売する取り組みを実施していました。

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    最高級のものを食卓に

    酪連では、はやくからバターを雪・月・花の3ランクに格付けし、最高級のものだけを食卓用として販売する取り組みを実施していました。

    1929年には、北海道庁で「バター検査条例」が設けられ、合格品には推奨マークをつけることとなりました。
    これにより、「雪印北海道バター」の名声は一段と高まったのです。

    最優良品質保証

  • episode2

    国富のため、
    国産でがんばろう

    国産バターの品質向上のため、黒澤 酉蔵は塩の専売公社へ出向き、質の高い精製塩の提供を陳情しました。

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    国富のため、国産でがんばろう

    「雪印北海道バター」の品質は、当時主流だった輸入品バターと比較すると、塩の品質に課題がありました。輸入品は岩塩を使っており、品質も風味も非常によかったのです。
    そこで、黒澤 酉蔵は塩の品質改善のため、当時、たばこ、塩などの国による専売事業を行っていた日本専売公社へ出向き、塩の品質向上を陳情しました。
    ところが、相手は「それでは輸入岩塩を使用すればいいのではないか」と回答。それに対し、黒澤は「製酪事業は寒地北海道の経営の成否にかかわる問題である。国富のため、全て国産でがんばろうとしているのだ。」と詰め寄ったそうです。
    その気迫と真剣さに圧倒され、その後、日本専売公社は優れた精製塩を提供、「雪印北海道バター」の品質と風味の向上につながりました。

    黒澤 酉蔵

  • episode3

    「雪印北海道バター」
    を、本州でも
    もっとおいしく

    1930年頃、北海道から本州へ運ぶときの品質維持のため、鉄道貨車に氷を積んだ輸送方法が開始されました。

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    「雪印北海道バター」を、本州でももっとおいしく

    1920年代まで、本州に運ばれる「雪印北海道バター」は、売られる頃には品質が落ちてしまっていることが課題でした。
    そこで、1930年頃には、鉄道貨車に氷を積む方式による本州への輸送を開始。冷蔵網を拡大することで、品質が飛躍的に改良されました。冷蔵設備が発展するのは、ずっと後のこと。この輸送方法は、冷蔵輸送の先駆けとなりました。

    冷蔵貨車

  • episode4

    禁酒禁煙、断髪丸坊主

    1933年当時、社員には、入社時に「禁酒禁煙」「断髪丸坊主」の誓約書へのサインが義務付けられていたそうです。

    ※現在は実施しておりません。

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    禁酒禁煙、断髪丸坊主

    1933年当時、社員には、入社時に「禁酒禁煙」「断髪丸坊主」の誓約書へのサインが義務付けられていたそうです。
    これはすべてバターの品質のため。工場内での匂い移りを防ぎ、味覚を鋭敏にするために、黒澤 酉蔵が全従業員への“規律”として定めたものでした。
    「雪印北海道バター」の品質の優位性は、このような全員一致の実践から育まれてきたのです。(※現在は実施しておりません。)

    1930年頃 中央工場

宣伝・販売の取り組み

  • episode1

    販路拡大

    1926年(大正15年)、東京出張所が開設されました。責任者の瀬尾 俊三は、設立当初、毎日自転車に乗って営業回りに奮闘したそうです。

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    販路拡大

    1926年、北海道以外の販路を拡大すべく、東京出張所が開設されました。
    責任者として常勤していた瀬尾 俊三は、開設当初、毎日自転車に乗って営業回りに奮闘しました。
    当時はバターにあまり馴染がなく、百貨店で宣伝用の試食サンプルを配り「タダで差し上げます。」と呼びかけても振り向く人はおらず、販売に、たいへん苦労したそうです。
    しかし、瀬尾の持ち前の辛抱強さと熱意、茶目っ気たっぷりの人柄が人々の心を動かし、バターの宣伝に努めた結果、徐々に販路は拡大、業績も飛躍的に伸びていきました。

    瀬尾 俊三

  • episode2

    我々の仕事は
    国家的な仕事

    バターの製造、それは国民の健康を守り、北海道の農業を救うことに繋がること。
    黒澤 酉蔵は、そう接待の場で語り、人々の心を動かしました。

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    我々の仕事は国家的な仕事

    黒澤 酉蔵は、販売店の招待は必ずレストランと決めていました。
    そして、『北海道の農業を救うには酪農の外ない、そこで必然的に生まれる牛乳で、組合がバターをつくるのです。
    我々の仕事は国家的な仕事である。しかし貧乏な酪農家の集まった組合であるから、あなた方を立派な料理店に招待することはできません。
    私たちの方針はバターをつくり、組合の経営を良くすることを第一とし、そのために禁酒禁煙を励行している』
    ということを赤裸々に話しました。
    『バターは国民保健の上に必要であり、あなた方は商売のうえで売っているが、その役割は大きい。一方では北海道の農業を救っていただいているのである』
    このバター製造の必要性を語った話は、取引先から非常に感激され、黒澤の誠意を汲み、さらに販路が拡大していったといいます。

  • episode3

    初めての
    料理パンフレットで
    普及活動

    1930年頃、他社に先駆け、日本料理に簡単にバターを使える方法を載せた「料理のしおり」で普及を行っていました。

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    初めての料理パンフレットで普及活動

    1930年頃には、他社に先駆け、当時の映画スターを使った「雪印北海道バター」の宣伝や、「料理のしおり」を作成して、日本料理に簡単にバターを使える方法を普及することで、バターの宣伝をおこないました。
    この頃になると酪連の基礎がようやく確立され、全道酪地帯の随所に製酪所が整備されます。1932年には、バターの国内生産量のうち、75%を占めるまでに拡大していきました。

    パンフレット

  • episode4

    「雪印北海道バター」が世界へ

    酪連では、はやくからバターの海外輸出に着目。血のにじむような努力の結果、その品質は世界からも認められる品質へとなりました。

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    「雪印北海道バター」が世界へ

    酪連では、はやくからバターの輸出に着目、1927年に初めて上海、大連へ輸出を開始しました。
    その後、当時の朝鮮、台湾、満州にも輸出を開始します。
    1935年には、世界一の市場だったロンドンにも進出。現地でも品質に高い評価を得て、取引に繋がりました。
    まさに、品質改善と販路拡大に血のにじむような努力をした結果、「日本にそんなバターができるはずない」といった世界の常識を覆し、ブランドの声価を高めた瞬間でした。

    朝鮮向け缶バターラベル

    ロンドンへ出荷

  • (左上)雪印北海道バター(10gに切れてる)
    (左下)雪印北海道バター ミニパック
    (右)SNOW ROYAL コクと香りの 雪印北海道バター

    episode5

    様々なバターを
    お客さまへ

    その後も、時代とともに変わりゆくお客さまのニーズに応え、様々なバター商品が発売されました。
    『北海道酪農の発展と、乳製品による国民の栄養改善・体位向上を目指す。』
    その想いからはじまったバターの製造は、やがて全国へと広がり、日本のバター市場の定着と拡大に貢献していきました。

これからも、「雪印北海道バター」は、
創業時から変わらぬ想いと、
受け継がれてきた伝統を大切にしながら、
日本の食卓を豊かにしていきます。

※画像はイメージです