牧場通信

宮城県 佐々木牧場

牧場名 佐々木牧場
所在地 宮城県栗原市一迫(上原地区)
開設 昭和30年
飼育頭数 42頭(平成20年2月1日現在)
乳量 121,362kg(平成20年上期累計)

宮城県内でもっとも広い面積を誇り、自然と四季の移ろいが大変美しい高原都市が宮城県栗原市です。
鳴子温泉が近くにあります。

今年(平成20年)6月、東北で震度6強の地震がありましたが、震源地のすぐそばの栗原市で、戦後の開拓から酪農を営み、「牛飼いの中に楽しみを見つける」と赤い牛を増やしていらっしゃる佐々木純(65歳)さんにお話を伺いました。

戦車や人力で開拓

この上原(うわはら)地区は、戦後の開拓地で、満州、樺太の引揚者や地元の次三男対策に開拓された地域です。中心部に軍馬開拓はあったものの、うっそうと茂る一面の雑木林ばかりで、その頃はトラクターがないため、戦車や人力で開拓したといいます。

佐々木さんは、昭和18年生まれ。
昭和24年、役場で入植の世話をしていたお父様が、「自分も百姓をするべかな・・・」と約12戸と一緒にこの上原地区に入植、開拓を始めました。
茅ぶきどころか、ササぶきのほったて小屋での共同生活。お風呂はドラム缶。雨が降れば蕗(ふき)の葉を傘代わりに・・・。
佐々木さんは少年時代このような生活を体験されています。
くる日もくる日も、林を切り倒し、土地を切り開いていく厳しい生活。
「今考えるとよくやったなぁ」と思うそうです。

開拓の記念碑

先人の人々の血のにじむような努力の結果、こうして何もない地に、農地が開け、牧草が繁る美しい大地に変わっていきます。

昭和28年に冷害があり、お父様は、芋、菜種、豆を作っていましたが、昭和30年からぽつぽつと牛一頭から飼い始めました。
どこも似たようなもので、雑穀を食べ、冬は出稼ぎという生活が続きました。

ご両親手作りのブロック牛舎から

ご両親は、牛一頭から飼い始めましたが、牛の頭数が増えて納屋が手狭になりました。
6〜7km離れた川渡駅の蒸気機関車(SL)の石炭入替え場所から、石炭ガラを拾い、灰をふるいで取り、ブロックの型(かた)を作ってもらい、セメントと混ぜて、ブロックを自作し積み上げて、8頭牛舎を建てました。
なんでも、自分達や仲間達の手作りでした。
この自家製ブロックは、柔らかいので五寸釘が刺さるし、雨でボロボロになりましたが、今も、倉庫として立派に役立っています。
さらに、牛が増えたため、昭和30年代前半、北海道でよく見かける丸い赤い屋根をもつ、12頭牛舎を増築します。
2階を倉庫として使用でき、丈夫な、作りで、キング式といいます。雪が降る地区に適した屋根です。

昭和36年、高校を卒業したのを期に、実家の手伝いを始めました。長男だったため、他の仕事はなにも考えずに酪農の道に進みます。

この上原地区では、昭和40年頃に「牛で食う(酪農)」が主流となりますが、少し早い昭和35〜36年頃から放牧を開始。
飼育頭数が20頭位までは、放牧しましたが、牛が増えて餌が足りなくなり、牛の出し入れも大変なので、繋ぎ飼いに変更しました。

昭和56年に今の40頭牛舎を新築。多いときで成牛が40頭にも。
今は、成牛は30頭。
育成牛は、組合の育成センターへ、委託しています。

飼料畑作の刈り入れ

昭和37〜38年の国の離農対策で廃業した4軒分の土地を購入。ブルドーザーで広げて、今の規模の混播(コンパン・混合の牧草)10町、デントコーン2町の牧草地になりました。
デントコーンは、5月10日を目安に種をまき、気候や水分量を見て、9月下旬〜10月刈り入れをします。
イネ科や豆科の混播牧草の刈り取りは、一番草は5月20日頃から始まり、四番草の10月下旬まで続きます。
牧草は、収穫後すぐにラップしますが、収穫時期で栄養価や状態が違うので、それぞれラップを色分けし、餌やりも使い分けています。

「四番草の刈入れ時は、急に雪が降ったりするから、天候とのかけ引きだね。四番まで刈れば、牧草の収穫量も昔に比べて増えているから、春まで食べさせる分が間に合うんだ」

「その年の気候によって影響を受けることもあるから、わざわざ混播牧草にしているんだ。ここはいろいろな動物が来るよ。狸、キツネなどが来るけど、デントコーンは、2割は熊の被害があるね。でも、食べ物があるから人は襲われないんだ」

毎日使うものにお金をかける

365日お休み無しの酪農家の強い味方が「酪農ヘルパー」という助っ人。佐々木さんは、20年前から利用しています。

「利用開始の一日目からヘルパーにすっかり任せるから、周りからは大丈夫か?と心配されたけど、1か月に1日は必ず利用するね。祝儀や不祝儀の時に利用して、あまりに急な時はヘルパー組合の仲間内でヘルパーを融通しあうんだ。2年に1回は1週間位のお休みを取り、北海道には何回も行ったよ(奥さんと)。気持ちの切替が重要だね」

牛の頭の上の黒板は、ヘルパー向けのデントコーンサイレージのフォークですくう回数。メンバーが違うヘルパーが来ても餌の量が同じになるように、佐々木さんは日ごろから工夫しています。

平成8年には自動給餌機やミルクキャリーを購入。
自動給餌機は、牛舎の中を、濃厚飼料を牛ごとに配りながら、牛舎をU字型に一周約20分移動して戻ってきます。
毎日、朝の掃除後、搾乳後、昼13時、夕方の掃除後、夕方の搾乳後の5回稼動させます。
牛舎の牛も慣れてきて、自動給餌機を待っています。
来る時間もわかっているから、5分前に立ち上がって待っています。

「パターン入力設定があって、牛毎の乳量に合わせて濃厚飼料を日別に変動した量を配り、自動でタンクから飼料を入れて、充電もしてくれる。それまでは三輪車で運んでいたけど、身体がとても楽になった。また、ミルクキャリーも導入したことで、搾乳時間が短縮され効率的な搾乳ができるようになった。毎日使うものにはお金をかけるんだ」

自動給餌機

震度6強の東北地震

今年(2008年)6月14日午前8時43分ごろ、岩手県内陸南部を震源とする地震で、宮城県栗原市では震度6強を観測しました。

「ウチでは、牛舎で搾乳が終わった後で、自動給餌機が10頭目を通過中で、全頭立ち上がっていた。それが良かったみたいだ」

突き上げるような強い縦揺れの震度6の地震がおさまり、関係者と話をしていて、そういえば!と見たら、牛舎の梁が折れていた。
重い餌が入ったまま揺れて、その重さでレールが曲がり、ボルトが折れたようで、コンクリートの床にもヒビが2か所の被害が出ました。

「6月30日まで二週間断水。それが一番難儀した。電気は大丈夫だったから助かったね。TVのニュースでも流れていたけど、被害が一番ひどかった栗原には自衛隊が来て、ここ(上原)は、行政関係の給水車が来た。山形などの応援の県外の給水車も来たし、みやぎの酪農も集乳タンクローリーを洗って給水に来てくれた。搾乳や洗浄は給水車の水でやったから、生乳は止まらずに全量出荷できたんだ。」

「近所の牛舎では、寝ていた牛が地震にびっくりして慌てて起き上がって骨折で廃牛にしたとか、ストレスで牛の発情が来ないとか、早産や死産という話もあったけど、ウチはお産にも影響がなかったんだ。水が出た途端に、身体中や足が痛くなって大変だったね。夢中で作業していて気が付かなかったみたいだね」

「その後も余震で牛達がモウモウ騒ぐ時があっても、安心するように人間が牛の頭を叩いてやると大人しくなった。地震の影響で、乳質は特別問題はなかったが、乳量は、15%位下がったみたいだ」

赤い牛を増やしたい

「同じ仕事でも、苦労の中でも、楽しみを持つと、苦労と思わないね。楽しみと言えば、成牛30頭中、赤い牛を10数頭飼っている(育成牛12頭中、赤い牛は10頭)。理想は、牛舎に一頭置きに赤牛を入れたいね。特別違うわけじゃない。特別乳量が多いわけじゃない。毛色が違うだけなんだけどね。赤い牛は、ホルスタインを改良する際に、エアシャー種を利用した。その因子が残ったものが赤くなるんだ。これを増やしたいと思っているんだ。お産が楽しみでね〜。メスが生まれたらいいなぁと思っていたら。ここ2年ばかりオスばかり続き、メスがようやく続いて、先日は双子だったんだよ」
と笑っておられました。

近所の酪農家のところにもあんまりいないそうです。
育成センターでも「あ、赤牛だから佐々木さんところだ」と言われる位、知れ渡っています。

お父様の酪農を受け継ぎ、ご夫婦で佐々木牧場を盛り立ててきましたが、あと数年で廃業を予定しているそうです。

編集後記

震度6の地震のお話もあっけらかんとお話され、「赤い牛を増やす」夢を楽しく語られる佐々木さんが、あと数年で廃業とはとても残念です。
そんな佐々木さんの牛乳にまつわるお話を皆様へお届けしたいと思いました。
何もないうっそうとした雑木林を切り開き、豊かな大地に生まれ変わらせる開拓の人々の「生きる」たくましさを、地平線まで続く牧草地を見て強く感じました。
佐々木牧場の生乳は、雪印メグミルク・みちのくミルク工場に送られます。
お忙しいところ取材に応じていただきありがとうございました。

(2008年10月)

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